人生には思い通りにならないことが多々あります。どれほど綿密に立てた計画であっても崩れることはありますし、人間関係が複雑にこじれてしまうこともあるでしょう。
こうした状況に直面したとき、私たちが真っ先にとる行動は、なんとかして状況を変えようとすることです。そして、自分の力ではどうにもできないと悟ったとき、私たちはせめて「なぜこんなことになったのか」という理由を知りたくなります。
「なぜ自分にこんなことが起きるのだろう?」 「この出来事には、何か意味があるのだろうか?」
ここで、人生をコントロールしたいという欲求と、人生を意味づけて理解したいという欲求は、深くつながっているように感じます。どちらも根底には、先の見えない不確かさと共に生きることの難しさがあるのではないでしょうか。
そしてこれこそが、多くの人がスピリチュアルに惹きつけられる大きな理由のひとつだと思います。
スピリチュアルな教えの多くは、「自分が自分の現実を作っている」と説きます。私たちの信念やエネルギー、内面の状態が目に見える世界を形作っている、と。そしてまた、人生で起きる出来事には一見しただけでは分からない深い意味が込められているのだ、とも教えられます。
自力ではどうにもできない状況で無力感に苛まれている人にとって、時としてこうした考え方は大きな希望となるでしょう。「自分はただ運命に翻弄されるだけの存在ではない」「私は現実を変えられる」と思えるからです。
私は10年以上にわたってヒーラーとして活動してきましたが、そのなかで、スピリチュアルな実践が人々の心にとっていかに深い意味を持ち得るかを目の当たりにしてきました。しかし同時に、コントロールしたい、あるいはすべてを理解したいという思いが強くなりすぎたとき、私たちがスピリチュアルと結ぶ関係がどれほど複雑でいびつなものになり得るかも見てきました。
「すべてコントロールできる」という罠
現代のスピリチュアルにおいて中心的なテーマとなっているのが、きっとご存知のように、「自分が自分の現実を創っている」という概念です。
実際この概念に基づいて、理想の人間関係や経済的な豊かさ、望む成果を引き寄せるための教えやメソッドが数多く提供されています。そして、そこで使われる言葉は「どのような結果が得られるか」に焦点を当てたものが多いです。
多くの人は、最初からスピリチュアルそのものに興味があってヒーリングにやってくるとも限りません。生活のなかで苦しいことがあったり、どうしても変えたい現状があったりするからこそ、助けを求めてやってきます。
そして実際に、望んでいたような変化や体験を手にする人たちもいます。しかし正直に言えば、そうした変化が一過性のものに終わったり、期待していたような結果がまったく現れなかったりすることもあります。
私が懸念しているのは、こうした実践の中で生まれる過度な期待です。
「観念を変えたりエネルギーをクリアにしたりすれば、外側の現実が変わる」と言われると、人はついこう思ってしまいます。
「自分の現実を創れるのなら、なぜこの状況を変えられないのだろう?」 「まだ現実が変わらないのは、自分の取り組みが足りないからかもしれない」
こうして、自己探求やクリアリングのプロセスが終わりなき追及へと変わっていきます。
もう一度ヒーリングを受け、さらに浄化を重ね、障害となっているかもしれない目に見えないブロックを外すための新しいワークを試す……。このサイクルに囚われ、一向に訪れない望む変化を追い求め続けている人たちを見てきました。
なかには疲れ果ててしまい、スピリチュアルな実践そのものに二度と関わりたくなくなってしまう人もいます。かつては希望を与えてくれたはずのものが、いつの間にか、やめるにやめられない重荷へと変わってしまうのです。
また、「すべては自分のコントロール下にある」と信じることには、もうひとつのリスクがあります。
それは、人生の圧倒的な複雑さや、他者の自由や状況といった要素を軽視し始めてしまうことです。私たちの願望とは無関係に存在している、世界の広大さや複雑さを見失ってしまうのです。そして、現実が自分の思い通りに動いてくれないとき、大きな失望と絶望を感じてしまうのです。
私たちは確かに自分たちの人生に影響力を持っていますし、その影響力を行使したいと思うのはごく自然なことです。しかし、その影響力が本来の限界を超えて及ぶはずだと思い込んでしまうと、結果として不必要な苦しみを自ら生み出すことにもなります。
意味を見出さずにはいられない私たち
人生を理解したいという欲求に関しても、よく似たパターンが現れます。
私たちは、自分にとって無意味に思える出来事、特に痛みを伴う出来事を受け入れることが得意ではありません。そんな時、私たちは出来事に意味を与えることで安心しようとします。「これにはこんな意味があったんだ」と分かることは、私たちを安心させてくれるのです。
ここで、スピリチュアルは、起きている出来事を解釈するための視点をたくさん提供してくれます。偶然の出会いは「サイン」、難しい人間関係は「魂の学び」、不幸な出来事は「より大きな目的に至るためのプロセス」として解釈されます。
こうした解釈が慰めをもたらしてくれることもありますが、しかし意味の探求もまた、行き過ぎてしまうことがあります。
たとえば、友人がしたほんの小さな過ちを「自分に対する敵意の表れ」だと解釈したり、果ては「その関係を終わらせるべきだという宇宙からのメッセージ」だと捉えてしまったりする人がいます。「相手がただ疲れていたから」「単なるうっかりだった」という、ごく日常的で合理的な可能性は真剣に検討されることすらありません。そしてその結果、大切だったはずの人との関係を断ち切ってしまうことさえあるのです。
さらに、「すべての出来事にはスピリチュアルなメッセージがある」と考えているうちに、ほぼあらゆる出来事を自分にとって納得のいくストーリーに当てはめようとしてしまうことがあります。真実を探すのではなく、自分がすでに信じていることの裏付けを探し始めてしまうのです。
そして、ある解釈が自分にとって都合が悪くなれば、また別の解釈を探せば済んでしまいます。占い師やヒーラーを繰り返し訪れ、同じ質問を何度も問いかけずにはいられない人がいる背景には、こうした心理があるのではないでしょうか。
「なぜこんなことが起きたのですか?」 「これにはどんな意味があるのですか?」 「私はどうすればいいのでしょうか?」
結局のところ、どれほど多くの解釈を受け取ったとしても、生きることにつきまとう不確かさを完全に消し去ることはできません。仮に出来事の背景にスピリチュアルな意味が存在するのだとしても、私たちがそれを正しく理解できていると確信しきることもできないのです。
なんらかの意味に対して心をオープンにしておくことと、「すべての体験には意味があるはずだ」と固執することの間には、大きな違いがあります。
スピリチュアルは人間のために存在するのか?
現代のスピリチュアルの多くは、人間がそこから何を得られるかに焦点を当てているように見えます。
「スピリチュアルな法則を使って、どうすればより良い人生を築けるか?」 「スピリチュアルな知識を通してどうすればより良い決断ができるか?」
これらは私たち人間にとって率直で素直な望みでしょう。しかし、スピリチュアルを「私たちに役に立つかどうか」という視点ばかりで捉えるとき、私たちは何か大切なものを見落としているのではないかと思わずにはいられません。
ここで、リンゴのことを考えてみましょう。リンゴは私たちに栄養を与えてくれますし、食べれば美味しいと感じます。しかし、リンゴは人間に食べられるためだけに存在しているわけではありません。リンゴはただ、リンゴとしてそこに存在しています。
海も同じです。私たちは海で泳ぎ、船で渡り、その美しさを楽しむことができます。けれども海は、私たちが利用したり楽しんだりする範囲をはるかに超えたところで存在しています。
スピリチュアルという領域についても、同じことが言えるのではないでしょうか。もし聖なるもの、私たちの知性を超えた「大いなる何か」が存在するのだとして、なぜそれが人間の利益のために存在していると前提できるのでしょうか。
スピリチュアルな実践が安らぎや洞察をもたらしてくれるのは事実であり、私自身もその価値を実感しているからこそヒーラーとしての仕事を続けています。しかし、もしスピリチュアルな現実というものが存在するのだとすれば、それは人間にとっての実用性などをはるかに超えた広がりのなかにあるはずです。
自分を超えた大いなる存在を信じていると言いながら、それを自分の欲望を満たすためのツールとしてだけ扱っているのだとしたら、どこか矛盾しているように思えます。本当に人間の理解を超える存在であるならば、そこには当然、私たちが説明することも、自分たちの思い通りに曲げることもできない側面があって然るべきなのです。
分からないことと共に生きていく
人生をコントロールしたい、そして理解したいという望みは、人間としてあくまでも自然なものです。誰だって安心感を抱いて生きていきたいですし、自らの努力には意味があり、起きることには理由があってほしいと願うものですから。
しかし、長年ヒーリングの現場に携わってきたなかで、こうした望みがどれほど容易にスピリチュアルな実践の形を歪めもしてしまうかを実感するようになりました。
純粋な探求心から始まったはずのものが、いつの間にか、聖なるものを使って自分の問題を解決しようとする試みへとすり替わってしまう。そして人生が思い通りにいかないと、深い挫折感と苛立ちに苛まれることになるのです。
私は、スピリチュアルとの関わり方には別の道もあるのではないかと思います。
人生を完璧にコントロールできると期待することなく、スピリチュアルな影響の可能性を探求してみること。すべての出来事に自分の納得のいく説明を求めたりせず、しかし同時になんらかの意味に対してオープンであり続けること。
世界は恐ろしいほど複雑であり、私たちが与える意味づけなどをはるかに超えています。もしスピリチュアルな現実が存在するのなら、それはなおさら、私たちの理解が及ばないものであるはずです。自分がいかに何も知らないかを認めることこそが、かえってスピリチュアルとのより豊かな関係を育んでくれるのではないでしょうか。
そしてまた、目の前の出来事がなぜ起きたのか、必ずしも理由を知る必要はありません。辛い体験のすべてを、宇宙からのメッセージに変換する必要もないのです。
どれほど内面を磨き、意識を高め、真摯に実践を重ねたとしても、人生には自分たちのコントロールが及ばない出来事が残ります。予期せぬ出来事は起きますし、どれほど強く望んでも変わってくれない状況もあります。それは決して、あなたの理解が足りないからでも努力が足りないからでもありません。時には、答えの出ない問いを抱えたまま生きていかなければならないこともあります。
現実に納得のできる意味をただちに見出すこともできず、変えられない現実とただ向き合わなければならないときもあるでしょう。こうした不確かさを引き受けて生きていこうとする姿勢そのものが、私たちが理解しようと模索している「大いなる現実」に対して、自らを開いていくひとつの道なのかもしれません。