この1年、ヒーラーとして活動する中でずっと頭から離れなかった問いがあります。それは、スピリチュアルな教えがなぜ時に人々が自分自身を責める理由になってしまうのか、という問題です。

この問題について、私には言いたいことが本当にたくさんあります。しかし、この記事では「自分の現実は自分が創造している」というよく知られた教えについて考えてみたいと思います。

この考え方にはいくつかの捉え方があります。控えめな解釈をとるなら、「私たちの選択や信念、日々の反応のパターンが、日々の体験を形作っていく」という意味になります。その一方で、より強い形而上学的な解釈をとるなら、「私たちの意識が、他者の行動も含めて、自分に起きるあらゆる出来事そのものを生み出している」という意味になります。

これらはまったく異なる主張ですが、どちらの捉え方であっても、最終的には同じ苦しい結論に行き着いてしまうことがあります。「傷つけられた体験をしたということは、自分がそれを創り出したからだ。そして自分が創り出したのだとしたら、相手ではなく自分こそが責められるべきだ」というように。

この記事では、現実を創造することと、その現実の中で起きた出来事に対して倫理的な責任を負うことは本当に同じなのか、心理的な側面と論理的な側面の両方から考えていきます。

セッションで見られる共通のパターン

ヒーリングのセッションの中で、クライアントから似たような発想を繰り返し耳にすることがあります。

例えば、信頼していたパートナーから深い裏切りを受けたり、職場で不当な扱いを受けたりと、自尊心をひどく傷つけられるような経験をしたクライアントがいるとしましょう。

しかし、相手が何をしたかを考える代わりに、彼らの反応は即座に自分自身へと向かいます。

「自分が現実を創り出しているのだとしたら、この出来事も自分が引き起こしているはず」
「この状況を引き寄せたのは自分なんだから、相手を責める権利はない」
「これが自分に起きたということは、自分の中にまだ癒すべき何かがあるからだ」

人によっては、この発想からさらに先に進んでしまうこともあります。自分を傷つけた相手を擁護する理由を探し始め、その不当な扱いを「必要な人生のレッスン」や「未解決のスピリチュアルな課題の証拠」と解釈しようとするのです。相手の倫理的な責任を取り除き、その重荷をすべて自分の肩に背負い直してしまうのです。

こうした話を聞いたとき、私はシンプルな区別をいつも提示します。

たとえあなたがその状況の形成に関わっていたとしても、そのことが他者の行った行為に対してあなたに倫理的な責任を負わせるわけではない。また、相手の行動が正当化されるわけでもない、と。

しかし、多くのクライアントにとって、この区別を受け入れるのは決して容易ではないようです。じっくり話し合った後でも、「それでも、自分がこの体験を創り出したのなら、結末に対しても責任があるのではないか」という感覚を払拭できないことがよくあります。

私が観察するに、この抵抗感には、心理的な理由と概念的な混同という2つの側面があります。

なぜ自分を責めるほうが安全に感じられるのか

一見すると、不当な扱いを受けたことに対して自分を責めるのは、完全に自己破壊的な行動に見えます。それでは、なぜ人は自分をより苦しめるような考え方に固執してしまうのでしょうか。

心理的な観点から見ると、自分を責めることには「コントロール感を保つ」という目的があります。

信頼していた誰かが、知っていながら自分を傷つけることを選んだという事実に直面するのは、とても恐ろしいことです。自分ではコントロールできない他人の選択によって、自分の人生が大きく左右されてしまうという不都合な現実に突きつけられるからです。

ここで、「これは自分のエネルギーのせいだ」「未解決のパターンのせいで引き寄せたのだ」と自分に言い聞かせるなら、状況はどこか自分のコントロール下に収まるように感じられます。

その結論には痛みが伴いますが、同時に奇妙な安心感ももたらします。問題の原因が自分にあるなら、自分で修正できるかもしれない。そして修正できれば、同じことが二度と起きないよう防げるかもしれない。つまり、自分を責めることは、恐ろしい不確実性を予測可能に置き換えるための試みになっているのです。

そして、感情の面ではもう1つの理由もあります。

大切な人が自分にひどい扱いをしたと認めることは、私たちの安心感や相手との関係そのものを脅かします。相手の冷酷さを直視するよりは、「自分が状況を誤解しただけだ」とか「自分の波動が引き寄せてしまったのだ」とかと思い込むほうが、精神的な苦痛が少なくて済む場合があるのです。自分を責めることで、相手に対する肯定的なイメージを守り続けようとするわけです。

こうした感情的な動機には十分な理由があり、頭では相手が悪いと分かっていても罪悪感を手放せない背景を説明してくれるでしょう。

しかし、心理面だけでなく、論理そのものにも見落とされやすい混同が存在します。

混同してはならない3つの問い

痛ましい出来事が起きたとき、私たちはまったく異なる3つの問いを混同してしまいがちです。

  1. なぜこの出来事が起きたのか?(原因)
  2. 起きたことに対して、誰に倫理的な責任があるのか?(倫理的責任)
  3. 今、自分に何ができるのか?(主体性・実践的責任)

1つ目の問いは原因に関するもので、出来事が生じた仕組みや背景を探るものです。2つ目の問いは倫理に関わるもので、誰かの振る舞いが正しかったのか、それとも間違っていたのかを検討します。3つ目の問いは個人の主体性に関するもので、これからどのように応答するかという選択肢に焦点を当てています。

これらの問いはお互いに影響を与え合うことはあっても、1つ目の問いに答えたからといって、自動的に2つ目や3つ目の問いの答えが出るわけではありません。

日常的な例で考えてみましょう。

友人を自宅に招いたところ、自分が席を外している間に財布からお金を抜き取られたとします。もし招き入れていなければ、その盗難は起きなかったはずです。その限定的な意味において、あなたの決断は盗難を可能にした状況の形成に関与しています。

さて、そのことによって、あなたはその盗難に対して倫理的な責任を負うことになるでしょうか?

決してそうではないでしょう。あなたはもてなしを提供し、相手は盗むことを選んだ。これらはまったく別の行動であり、別個に評価されるべきものです。何かが起きる条件に関わったことそれ自体は、他人が行った悪事に対して倫理的な責任を負う理由にはなりません。責任を確定させるには、あなたが何を認知し、意図し、あるいは合理的に回避できたかという、さらなる検討が必要になります。

形而上学的な創造者という視点

スピリチュアルな観点からすれば、この例え話よりももっと深い次元の話なのだと反論されるかもしれません。すなわち、単に体験の舞台を用意しただけではなく、より深い意識のレベルにおいて、相手の行動も含めた体験全体を自らがまさに創り上げているのだ、と。

ここでは、その前提をひとまず受け入れてみましょう。では、そのことによって、あなたは起きたことに対して倫理的な責任を負うことになるでしょうか?

必ずしもそうとは言えないでしょう。この結論は、「形而上学的な創造者であることは、自動的に倫理的に責められるべきであることを意味する」という前提に立っています。しかし、その結びつきはまだ証明されていません。

倫理的な責任を問うには、単に出来事の究極的な発生源を特定するだけでは不十分です。その人が何を知っていたのか、何を意図していたのか、結末に対してどのようなコントロールを持っていたのかも考慮されます。

例えば、あなたが夢の中で誰かに裏切られる場面を生み出したとしても、だからといって、あなたが意図的に裏切りを望んだことにはなりません。夢を生み出したのがあなたの意識だったとしても、その展開を自分の意思で選び、コントロールできたかどうかは別の問題だからです。

「スピリチュアルなレベルで体験を創り出した」という主張それ自体は、あなたが悪意を持ってそれを意図したことや、それを防ぐ意味のある能力を持っていたことを証明するものではないのです。

ここで、「ハイヤーセルフが意図的にその体験を選んだのだ」と反論する人がいるかもしれません。しかしこれは、「ハイヤーセルフの意図は、現在の自分に帰属させることができ、それによって現在の自分に倫理的な責任が生じる」という、さらなる仮定を導入することになります。その結びつきにもまた、論理的な説明が必要です。

さらに、相手の自由意志の問題もあります。相手が自由意志で行動したのだとすれば、その選択は当然倫理的な評価の対象となります。もし相手の行動がすべてあなたの意識によって創り出されたものだとするなら、その理論は自由意志と倫理的責任に関するより大きな哲学的な問題を提起することになります。どちらの可能性をとったとしても、あなたに倫理的な責任があることが自動的に証明されるわけではないのです。

出来事がどのようにして生じたのかを説明することと、その中で起きたことに対して誰が倫理的な責任を負うべきかを確定させることは、まったく別の話なのです。

魂レベルの合意と「同意」の限界

これに関連してよく持ち出されるのが「ソウルコントラクト(魂の契約)」という概念です。生まれる前に、お互いの学びや成長のために特定の役割を演じたり、辛い体験を試みたりする合意を魂同士で交わしてきた、という考え方です。

この説に従えば、自分を裏切ったり傷つけたりした相手は、単に魂レベルの合意を果たしているだけだということになります。

しかし、仮にそうした合意が存在する可能性を受け入れたとしても、倫理的な問いは依然として残ります。ある体験を経ることに合意したからといって、その体験の中で行われたすべての行動が倫理的に正当化されるのでしょうか?

そもそも、ある行為に同意していることと、その行為が倫理的に正しいことは、必ずしも同じではありません。例えば、誰かが自分をひどく扱うことに同意していたとしても、それだけで相手の行為が倫理的に問題のないものになるとは限りません。本人の同意だけでなく、その行為の性質や状況も考慮する必要があるからです。

同じように、仮に魂のレベルで裏切られること自体に同意していたとしても、それだけで相手の裏切りが倫理的に正当化されるわけではありません。同意が存在するという事実と、その行為が倫理的に許されるかどうかは、別々に考える必要があるのです。

さらに、ここには根本的な問題があります。そうした合意が本当に存在するのか、それが具体的に何を許可しているのか、そしてそれが今まさに被害を受けている人に対して倫理的な強制力を持つのかを、私たちはどうやって検証すればよいのでしょうか。これらの問いに答えが出ない限り、確認しようのない魂の契約を、他人の不当な行為を許す口実として安易に持ち出すことはできません。

自分を責めることのない責任の引き受け方

私たちがスピリチュアルな教えをどのように語るかは重要です。

傷ついている人に向かって「あなたがこの現実を創り出した」と告げることは、本人の力を思い出させるための言葉として意図されているのかもしれません。しかし、すでに苦しんでいる人に向けて発せられたとき、その言葉は力づけへの招待というよりは、告発や非難として機能してしまいがちです。苦しみをその人の個人的な欠陥として扱い、痛みは内面の失敗の証拠であると示唆し、不当な扱いを「不当だ」と名付ける権利を奪ってしまうのです。

主体性や自分自身の力というものは、もっと違った形で捉え直すことができます。

自らの力を認識するとは、目の前にどんな選択肢が残されているかを見極めることです。傷つけられた後であっても、自分の対人パターンを見直し、より確固とした境界線を引き、誰を自分の人生に迎え入れるかを決めることができます。それこそが、自らの人生に対する誠実なオーナーシップではないでしょうか。

自分の人生に責任を持ちながら、他人の非行や悪事の責任を代わりに引き受けないことは可能です。自業自得だと思い込むことなく痛ましい経験から学ぶことはできますし、相手の不当な振る舞いを不問に付すことなく内面を見つめることもできるのです。

罪悪感なき主体性を求めて

ここで最も重要なのは、「私たちは究極の形而上学的な意味で現実を創り出しているのかどうか」ではありません。

大切なのは、たとえ何らかの形で現実創造という考え方を受け入れたとしても、「だからすべての苦しい体験に対して倫理的な責任を負わなければならない」という結論は自動的には導かれない、ということです。

スピリチュアルの教えは、苦しみ、心の脆さ、そして他者への信頼をどう解釈するかに直接影響を与えます。もしその教えが、自信を取り戻し、明晰で実践的な選択を下す助けになるなら有益です。しかし、不当な行為を許して倫理的な非難を自分自身の内側へと向けさせてしまうなら、それは人を傷つけるものへと変わってしまいます。

「あなたは自分の現実を創り出しているのだから、受けた扱いにも責任がある」と言い放つことは簡単です。しかし、仮に私たちが体験を形作っているとしても、他者が犯した過ちの罪まで背負うことになるのかどうかは、決して自明ではありません。自分の人生のオーナーシップを持つことと、そこで起きるすべての悪事の責任を背負うことは、そう簡単に同一視できないのです。