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カネコケンタロウ
ヒーリングサロン メルキーズ主宰
東京在住の男性ヒーラー。幼少期から精神世界に関心を持ち、10代からエネルギーワークを実践。2014年からスピリチュアルヒーリングの研鑽を積み、2016年に独立してヒーリングサロン メルキーズを設立。癒しを求めるお客様にヒーリングのセッション・ワークショップをご提供している。近年では、トルコ人向けのワークショップを開催するなど、海外向けの活動も積極的に行う。

導きと支配のあいだで

ヒーラーとして活動していると、スピリチュアルな言葉づかいについて立ち止まって考える瞬間があります。今日は、ずっと気になっていたことを書いてみようと思います。

目次

よくある語りのパターン

スピリチュアルな発信のなかで、こういう語りを見かけることがあります。

「人には成熟度に段階がある。段階が合わない人同士では、会話がかみ合わなくなる。だから人間関係が入れ替わっていくのは、ごく自然なことだ」

ここまでであれば、「そういう面もあるよね」と思える方は多いのではないでしょうか。人が変われば関係性も変わる。それ自体は、多くの人が経験的に知っていることです。

ただ、スピリチュアルにおいては、こうした語りにしばしば、気づきにくい「次の一手」がくっついてきます。

「だから、取り残される側にいてはいけない。もっと上を目指しましょう。波動を上げましょう。成長し続けましょう」

お気づきでしょうか。「こういう現象がある」という描写が、いつの間にか「だからこうすべきだ」という指示にすり替わっているのです。

「である」から「べき」へのジャンプ

哲学の世界では、これは古くから知られた問題です。「事実としてこうである」という記述から、「だからこうすべきだ」という規範を直接導き出すことはできない。その間には、必ず何らかの価値判断が必要になります。

たとえば、「人には体力の差がある」という事実から、「だから体力のない人は努力すべきだ」とは自動的には導けません。そこには「体力があるほうが良い」「努力で解決すべきだ」といった、別の前提が隠れています。

スピリチュアルな語りでも同じことが起きます。「段階の違いがある」という観察から、「上を目指すべきだ」「取り残されてはいけない」という結論に飛ぶとき、その間にはいくつもの隠れた前提があるはずです。「上に行くことは常に良いことだ」「下にいることは避けるべきだ」「そのための手段はこれだ」。こうした価値判断が、まるで事実の一部であるかのように滑り込んでくるのです。

しかも、こうした語りでは「段階」がしばしば「ランク」や「格」として表現されます。差異が序列として語られた瞬間、「上を目指す」ことがあまりにも当たり前に聞こえてしまう。道徳的なプレッシャーが、ただの観察のふりをして入り込んでくるわけです。

善意の言葉がつくる見えない壁

厄介なのは、こうした語りがたいてい善意から発せられていることです。「誰かを否定しているわけではない」「優劣の話ではない」「個人の選択の問題だ」。そういった但し書きが丁寧に添えられていることも珍しくありません。

でも、意図と効果は別のものです。

「私は誰も批判していません。ただ自分の居場所を選んでいるだけです」という言葉は、発する側にとっては誠実な自己記述かもしれません。けれど受け取る側にとっては、「あなたは私のいるべき場所にはいてはならない」という暗黙のメッセージになりえます。しかもそれが「個人の選択」として語られるぶん、反論しにくい。批判のかたちをとらない排除は、むしろ批判よりも深く刺さることがあります。

序列が「自然なもの」として語られると、距離を置くことが「成熟の証」に、排除が「健全な境界線」に、差別が「見極め」に読み替えられやすくなります。そこでは「登るか、取り残されるか」という二択だけが提示され、橋を架けること、対話を試みること、関係が変わること自体をただ受け入れること、そうした別の選択肢が見えなくなってしまいます。

同じ構造が、別の場面でも動いている

こうした「すり替え」は、序列の語りだけに限りません。ヒーラーとして活動するなかで、こんな相談を受けることがあります。施術者や指導者から、ある属性や状態について「それは自然ではないから、ヒーリングで直したほうがいい」と言われて深く傷ついた、という話です。

ここでも同じ構造が動いています。「自然かどうか」という、しかも議論の余地がある事実判断が、「だから変わるべきだ」という規範にすり替わり、さらにそれが「あなたのためを思って言っている」というケアの衣をまとっている。善意であるがゆえに、受けた側は怒りと混乱のあいだで身動きがとれなくなるのです。

序列の話であれ、「自然さ」の話であれ、根っこにあるのは同じ問題です。事実の記述に見せかけた価値判断が、無自覚なまま他者に押しつけられている。そしてその無自覚さこそが、言葉を鋭い刃に変えてしまう。

この語りが行きつく先

では、こうした構造を放置すると、どこに向かうのでしょうか。

スピリチュアルな語りには、構造的にこの方向へ滑りやすい性質があります。目に見えない因果、究極的な意味、救済の物語、より良い自分になりたいという願い。そうしたテーマは容易に、はしごや序列、そして脅しに翻訳されえます。最初は穏やかだった語りが、気づけばこんなかたちに整ってしまうことがあるのです。

「宇宙の法則によって、人は自然と序列に分かれる。下の段階にいる人は、やがて宇宙の進化に取り残され、最終的には苦しむことになる。だから上を目指しなさい。そうすれば素晴らしい世界が待っている」

こう並べてみると、なにか危ういものを感じる方もいるのではないでしょうか。

さらに、こうした語りをする人は、往々にして自分自身を「上の側」に位置づけています。その暗黙のポジショニングが加わると、「私の言うことを聞けば、あなたも落ちずに済みますよ」というメッセージが浮かび上がります。ここまで来ると、語りは世界観の共有というよりも、不安と依存を生み出す装置として機能しはじめます。

なぜスピリチュアルの文脈で言うのか

「でもそれって、スピリチュアルに限った話じゃないよね」と思われた方もいるかもしれません。その通りです。宗教、自己啓発、ビジネスの世界にも、似た構造はいくらでもあります。

では、なぜ私はあえてスピリチュアルの文脈でこの問題を取り上げるのか。それは外から批判したいからではなく、この世界に身を置く1人として、内側から意識を共有したいからです。

私たちが生きるこの場所で

こうした語りの危うさは、日本で活動する私にとっては他人事ではありません。

1995年のあの大事件以来、日本社会では「スピリチュアル」や「宗教的なもの」に対する強い警戒心が根づいています。「それってカルトじゃないの?」という問いは、今も日常のなかで頻繁に現れます。

その社会的なまなざしに向き合うことは、単なるイメージ戦略の問題ではありません。責任の問題です。そして、その責任を果たすためには、私たちの言葉づかいの倫理を真剣に考える必要があります。

そして、ヒーラーとして出会ってきた方のなかには、まさにこうした語りが生み出す力学のなかで苦しんでいる人が少なくありません。指導者のひとことを、自分の存在そのものへの否定として受け取ってしまう人。コミュニティから離れることを「堕落」のように感じて、苦しくても留まり続けている人。指導者のなかには、それをはっきり口にする人もいます。「離れた人たちは進化に置いていかれた」と。その力学がどれほどの苦しみを生んでいるか。そしてその背後には、ここまで見てきたのと同じ構造がひそかに動いています。

内側からの問いかけ

誤解のないように書いておきます。私はスピリチュアリティそのものを否定したいわけではありません。霊的な原理が存在しないと言いたいわけでもありません。スピリチュアルな言葉が本質的に危険だと主張しているのでもありません。

私が言いたいのは、もっとシンプルで、同時にもっと厳しいことです。私たちの言葉は、意図しようとしまいと、他者に影響を与えます。そしてその影響は、ときに望まない方向を向くことがあります。だからこそ、その可能性に対して倫理的に意識的であるべきだ、ということです。

「私のやっていることはそういうものじゃない」と思う方もいるかもしれません。でも、問題は自分がどう認識しているかではなく、自分の言葉がどんな力学を育てうるか、です。

もし仮に、あなたが信じるスピリチュアルな秩序が実際にあるとしても、それをどう語るかは選べるはずです。序列にするかどうか。不安を煽るかどうか。自分に特別な権威を与えるかどうか。所属することだけが安全への道だと感じさせるかどうか。そこには常に、倫理的な選択があります。

そして、導きと支配のあいだの境界線は、私たちが日常的に選ぶ、ごく普通の言葉によって引かれているのです。

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