MENU
カネコケンタロウ
ヒーリングサロン メルキーズ主宰
東京在住の男性ヒーラー。幼少期から精神世界に関心を持ち、10代からエネルギーワークを実践。2014年からスピリチュアルヒーリングの研鑽を積み、2016年に独立してヒーリングサロン メルキーズを設立。癒しを求めるお客様にヒーリングのセッション・ワークショップをご提供している。近年では、トルコ人向けのワークショップを開催するなど、海外向けの活動も積極的に行う。

「純粋さ」という危うい夢

先日、スピリチュアル系の発信をされている方の文章を目にしました。

そこでは、「スピリチュアル」という言葉が汚染されて本来の意味から離れてしまった、誤解されたまま広まっている、という趣旨のことが書かれていました。そして、この流れをなんとか正していかなければならない、と。

一見すると、この訴えはもっともに思えます。むしろ、崇高な志とすら感じられるかもしれません。スピリチュアルの世界に身を置いたことがある方なら、こうした声に触れた経験があるのではないでしょうか。「本来のスピリチュアルはこうではない」「本物の教えに立ち返るべきだ」。こうした純粋さへの回帰を求める声は、スピリチュアルの界隈では決して珍しくありません。

しかし、ここで少し立ち止まって考えてみたいのです。

目次

「スピリチュアル」を「国家」に置き換えてみると

試しに、こうした主張の中にある「スピリチュアル」という単語を「わが国」に置き換えてみましょう。

「わが国は愚かな人たちによって堕落させられた」
「本来のわが国の姿を取り戻さなければならない」

いかがでしょうか。どこかで聞いたことのある響きではありませんか。

純粋な本質への憧れ、汚されてしまったものを浄化したいという衝動。これはまさに、ナショナリズムの語法そのものです。実際のところ、「純粋さの回復」という物語は、歴史上繰り返し危険な帰結をもたらしてきました。20世紀のヨーロッパでは、民族の純粋性という理念が大規模な排除を正当化し、最終的には取り返しのつかない悲劇へとつながっていきました。「純粋なるもの」への夢が、どれほどの暴力を生み出しうるか。歴史はそのことを痛いほど示しています。

もちろん、こうした個人の発信とそうした歴史的悲劇を直接結びつけるのは飛躍しすぎかもしれません。しかし、そこに流れる論理の構造が共通しているという点には、注意を向ける価値があるのではないでしょうか。

歴史が示すもの:スピリチュアルと政治の交差

この問題を「遠い過去の話」として片づけることはできません。

歴史を振り返ると、スピリチュアルな思想と排他的な政治運動が結びつく例は、時代や地域を問わず繰り返し見られます。そして興味深いことに、あるいは不気味なことに、その接点には「純粋さへの憧れ」が存在しているのです。

この重なりは、偶然ではないかもしれません。

スピリチュアルの世界観がもつ「純粋さへの憧れ」は、ナショナリズムが描く「本来あるべき国の姿」という物語と、驚くほど自然に共鳴してしまいます。どちらも、かつて存在した(とされる)理想の状態への回帰を志向し、現状を「堕落」や「汚染」として退けるからです。

もう少し踏み込んで言えば、この問題はコロナ禍以降、さらに顕在化しました。ワクチンや西洋医学への不信感が、スピリチュアルな世界観と反体制的な政治意識を一気に接続させたのです。「自然なもの=善」「人工的なもの=悪」という二項対立が、いつの間にか「われら=善」「彼ら=悪」という排他的な構図へとスライドしていく。その過程は、ゆっくりと、しかし確実に進んでいきます。

「デトックス」という比喩に潜むもの

ここで、もうひとつ興味深い並行関係を指摘しておきたいと思います。

スピリチュアルの実践者の多くがデトックスを推奨しています。体内の毒素を排出し、清浄な状態を取り戻す。健康法としてはごく一般的な発想でしょう。

しかし、ナショナリズムもまた、一種の「デトックス」を夢見ているのです。外国人を「社会という身体」の中の毒素であるかのように見なし、排出しようとする。社会の「純化」を通じて、本来あるべき健全な状態を回復しようとする。

身体のデトックスと社会のデトックス。この2つが同じ論理構造を共有しているという事実は、少し立ち止まって考えるに値するのではないでしょうか。

もちろん、健康のために食生活を見直すことと、排外主義を唱えることはまったく別の次元の話です。しかし、「不純物を取り除けば本来の状態に戻れる」という物語の型は同一であり、その型が政治的な文脈に転用されたとき、何が起こるかは歴史が教えてくれています。

なぜ「愛と自由」を語るコミュニティに不寛容が生まれるのか

スピリチュアルのコミュニティに関わったことのある方なら、1度は感じたことがあるかもしれません。「愛」「自由」「受容」を掲げているはずなのに、内部には驚くほどの不寛容さや階層構造、硬直性が存在していることに。

「レベルが低い」「洗練されていない」「宇宙の進化についていけなくなった」。こうした言葉で他者を選別し、排除する。表面上はスピリチュアルな語彙で覆われていますが、その実態は極めて政治的な営みです。

つまり、こうしたコミュニティは、自覚しないまま、ひとつの政治的ドラマを演じているのです。純粋さを追求するという営みは、どこまでいっても個人的で非政治的なものにはとどまりません。そこには常に「誰が純粋で、誰がそうでないか」を決定する権力の問題がつきまといます。

そして、ここで問わなければならないのは、「純粋さを定義する権利は誰にあるのか」ということです。「これが本物のスピリチュアルだ」と宣言することは、同時に「あれは偽物だ」と宣言することでもあります。境界線を引くこと。内と外を分けること。これは紛れもなく政治の本質的な営みです。

純粋さの夢を手放すという選択

ここまで読まれて、不快に感じた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、この文章の目的はスピリチュアルを否定することではありません。

むしろ問いかけたいのは、こういうことです。

本当に向き合うべき課題は、スピリチュアルを「汚染」から救い出すことなのでしょうか。それとも、「純粋さ」という夢そのものを問い直すことなのでしょうか。

純粋さが目標であり続ける限り、排除はその影のようについてきます。純粋なものを守るためには、不純なものを特定し、遠ざけなければならないからです。この構造は、個人の内面の話であれ、社会の話であれ、変わりません。

もしかすると、「汚れ」を含んだまま生きること、「不純さ」と共にあること、矛盾を矛盾のまま抱えること。それこそが、もっとも困難で、もっともスピリチュアルな態度なのかもしれません。

完全な純粋さを求めるのではなく、混じり合いの中に豊かさを見出すこと。排除ではなく、包摂の中にこそ、精神性の本当の力があるのではないか。

きれいごとに聞こえるかもしれません。しかし、「純粋さ」の名のもとに繰り返されてきた排除の歴史を振り返れば、この問いを避けて通ることはできないのではないでしょうか。

目次